予測不能世界へ

18.04.03

 洞窟画はどのように生み出されるのだろうか。

 例えば洞窟の闇のなか、火をともしながら周りを見渡すと、おびただしい潜在するイメージがうごめいているように感じられる。岩の塊や鍾乳洞の先の形をきっかけに、そのひとつを自らの身体感覚を動員し描き出してゆく。あるいは夢や陶酔といった意識変容状態を手掛りに、闇に脈動する多種多様な線や面を引きずり出してゆく。そこは言わば形態が湧出し、意味が生成する場であり、新たなイメージを発見し、掘り起こす交感の場だったのだ。あるいはその場は原始の人々にとって生き延びる知恵の秘められたアーカイプのようなものであり、洞窟の壁面こそがそうした膨大な情報に触れるためのインターフェィスだった。洞窟そのものが一種の記憶装置や投影装置であり、洞窟空間自体に意味や形態を生みだしてゆく仕組みが孕まれている。

 鈴木ヒラクは我々の住む都市をそのようなものとして認識し、感知しつづけてきた。だから彼の作品は不可視の洞窟の構造を持ってしまった我々の都市の洞窟画のようなものといえるだろう。その幾何学的な物理的外観とは異なり、我々の住む都市は非物質化し、流動し、同時性を持った遍在する都市となりつつある。その変容する都市のなかで、秘められ、潜在する様々な記号や形態を精緻に救いだし、研きあげ、集積し、編集し、新たな形態を紡ぎだしてゆく。それはまさに洞窟の暗闇のなか、か細い燭光を手掛りに理もれたイメージを掘り出し、新たなキャンバスに五体を駆使しながら転写してゆく行為そのものといえるだろう。

 カルロス・カスタネダがトーナル・ユニバースとナグアル・ユニバースという二つの世界の違いを述べたことが思い出される。つまり前者は日常的な因果関係に支配された世界であり、あらかじめ記録されているかのように予測可能である。それに対し、後者は予測不能な、コントロールできない未知の世界であり、その世界へ入り込むには無作為の要因を受容したり、偶然の扉が開かれなくてはならない。もしアーティストが前者の世界にのみ存在しているのなら、トーナル・ユニバースをコピーしているに過ぎず、その作品は自分がコピーする世界と同じように予測可能である。しかし予測不能のものを呼び出そうとする者は、自らを積極的に偶然性と無作為性に対して開きつづけなければならない。しかも「今日効いた呪文は明日には気の抜けたビールのようになってしまう」のである。ナグアル・ユニバースは常に自らの力で更新され続りなければならない。鈴木ヒラクの作品には、その予測不能世界と対峙し、そこへ自らを投企しようとする本質的な身ぶりが多様な形態を超えて何重にも揺らぎながら印されている。

2008年1月
個展「NEW CAVE」カタログに掲載

アクチュアルな線を求めて ―ドローイングをめぐって

18.04.03

 昨今改めて「ドローイング」の意味や位置づけが問い直されている。1970年代に開設されたNYのドローイングセンターの活動が活発になり、注目が置かれ始めており、ロンドン芸術大学ではドローイングのセンターを開設し、様々な分野のドローイングの発表そして出版が行われ始めた。ドローイングはこれまで、スケッチやデッサンと呼ばれた下絵としての意味合いを越えて、明らかに違う位置を占め始め、それ自体が作品として自立するものとして認知されてきている。ドローイングはアートの領域のみならず、すべてのクリエイティブの領域で行われている創造的なエスキスの瞬間であり、それは作品の様式などにとらわれずに描かれているだけに、作家や作品の思考の運動そのものであり、生成過程そのものが見えてくる。

 もともとイタリア語のディゼーニョという言葉が素描を意味し、ルネサンス期においてすでに個々の事象、事物に線によって輪郭を与え明確に捉えることが芸術あるいは創造の根本と考えるすなわち世界を規定することに他ならないことが議論され、後に「デザイン」をも意味することになる。中国、日本においては、文字すなわち漢字は象形文字であり、具体的な事物や出来事が文字として置換されているがゆえに、われわれには西欧におけるカリグラフィーをはるかに凌駕する書道という文字の芸術を持っている。漢字は記号である以前に絵としての性格を色濃く持つ。であるからこそ私たちは書に美を感じ、伝統的に高位の芸術として捉えられてきた。書は生命的な躍動感と世界創出の瞬間を捉え続け、現代美術にも多くの影響を残している。人は洋の東西を問わず、世界を切り取り、創出するとき常に線と向かい合ってきた。鈴木の作品と活動を見るとき、私はこの初源的な人間の希求を強く感じるのだ。

 鈴木の制作活動は多岐にわたっている。幾何学的とも建築的とも見える、あるいはナスカの地上絵のような線描のドローイングや、今回ワンダーサイトで展示した作品のように、泥の中に埋め込まれた樹木の葉の葉脈をドローイングのラインとして発掘する作品、そしてライブハウスなどではライブペインティング、そして旅とともに生みだされる靴による路面のフロッタージュ、都市のアスファルト舗装の廃棄物を集めたインスタレーション作品など。鈴木の活動をひとつのカテゴリーの中で言い表すことは難しい。しかし、ひとたび通奏低音に線を見出したとき、彼が追い求めるものが明瞭に浮かび上がってくる。鈴木の描き出す線は古典主義的な事象を写し取ることや想像の線を描き出すのではなく、生命的で律動し生成する線を模索する。その様は、リアルな線あるいはアクチュアルな線を求めている。鈴木がずっと作り続けている何百枚にもわたるドローイングがある。TWSの展示ではそれをモルフィングする動画にまとめられた。その作品には彼の営みのエッセンスが象徴的に表されている。その独立した建築の設計図の一部のようでもある脈絡の無い一枚一枚がモルフィングされて繋がれて行くことによって、意味がどんどん剥ぎ取られていき、不思議な生成の瞬間に立ち会うことになるのである。不思議なドローイングはまるでアボリジニのドリームマップのように私たち現代人の初源的な命の躍動への道先案内となってゆく。

 今回の泥の中に葉を埋め込み葉脈を発掘する作品において、彼は滞在した青山の通りの木々からの葉っぱを集め、おなじように青山からの泥にそれを埋め、改めてそこから線を発掘するという作業を行った。その遠回りともいえるような考古学的な作業を経てこそ、私たちの身近な事物の中から改めて生き生きとしたアクチュアルな世界を蘇らせようとしているのだ。鈴木が見つけ出す線、私たちはそれを見ることによって、自らの中にむずむずとした得体の知れない疼きのような動きを感じることになる。鈴木の作品と活動はまるでアメリカインディアンのメディシンマンのように私たちをアクチュアルな世界と導いてゆくのである。

2008年1月
個展「NEW CAVE」カタログに掲載

NEW CAVE (Artist Statement)

18.03.30

 遠くの面白い場所を探して行くことよりも、すぐ目の前の場所を面白がれる瞬間が制作の引き金になることが多い。例えばアスファルトの上に落ちている曲がった枝2本の配置が、新しい象形文字とか何かのシグナルのように見えてしまう一瞬。それは、いまここという現実の中に、別の時間と場所に通じる鍵穴が現れるような、初めてなのにどこか懐かしい、静かな出会いの感覚をもたらす。
 変形し続けるパズルのピースがピタリとはまるように、体内の記憶と外の世界の記憶とが未開発エリアで符号するその瞬間を、描くこと、また描かれた痕跡を見ることによって捉えたい。
 だから私は描くという行為の中に、個人的な想像上の事象を「表す」方法だけではなくて、いまここに秘められた何かが想像を超えて「現れる」という発掘に近いやり方があることを希望だと思っているし、できる限り目の前にある物質や場所と関わりながらそれをやっているのだ。 そして作品自体がまた、私を含めた見る人の目にとっての鍵穴となり、そこから新しい外を覗くことができればいいと思っている。

2008年1月
個展「NEW CAVE」カタログに寄稿

作家解説

18.03.11

 音楽・ファッションなど、他ジャンルとのコラボレーションや、国内外でのライヴ・ベインティング、旅先の路面をフロッタージュ*した作品などを制作してきた鈴木ヒラクは、これまで「ストリート・アーティスト」の印象が強かったが、実際に彼の創作活動の核心をなすのは、ドローイングと絵画である。彼のドローイングシリーズ(GENGA)(「言語」と「銀河」、そして「原画」を意味する)は1,000枚以上におよぶものだが、いずれもA4のコピー用紙にマーカーで幾何学的、もしくは有機的なラインが描かれている。ドローイングの多くは、街中で見た看板や路上のサインなどからインスピレーションを受けており、それらが鈴木の頭の中で再構築され、象形文字のごとき形態として生まれてくるのだ。

 一方で、鈴木の絵画作品は街中に落ちている枯葉の葉脈の中心線を繋げ、それらを画面に定着させ、その上から土を塗り込んだのち、葉脈を「掘り出す」作業によって成立している。それらの絵画はまるで発掘された遺跡のような新鮮な驚きと、古代の記憶を喚起させる神秘性とを獲得している。また彼が手がける壁画においては、作家が感じ取るその場所の空気感によって描かれる図像が決定されるが、それらは膨大なドローイングから生まれたラインの強さと、直感的なインスピレーションが出合うことによって、巨大なスケールとしなやかさとを生み出すことに成功している。

 このように鈴木ヒラクの表現は、人工物・自然物の境界を超え、街中のあらゆる事物から遠い過去の息吹や記憶を発見し独自の作法によって作品を創造している。ストリートにおけるすべての事象、考古学的な興味、そして美術。これらのハイブリッドな結晶によって誕生する作品からは、遠い過去から今現在における「場」や「事象」の記憶を、未来へと繋ぐ創造的媒介者であり続けようとする鈴木の迷いなき意志が感じられるのだ。

*紙を凹凸のある素材にあて、表面の模様を鉛筆などで擦って写しとる技法。

2010年1月
森美術館「六本木クロッシング2010展:芸術は可能か? 」カタログに掲載

作家解説

18.03.10

 鈴木ヒラクの「描く」行為は、ものごとを「反転」させる。土を敷き、枯葉を埋め込み、葉脈の部分を手で掻き起こす《bacteria sign(circle)》(p84-85)では、葉脈の形状は影となり、葉脈の主脈のみが露わにされる。水分と養分の移動を担うこの脈が成す円という線と形はエネルギーの流動、循環を想起させる。表面に留められた葉の形、土の色はパネルによって様々で、制作ごとにその時手元にある葉と自身の足下にある土で描いたことを示す。こうして移動、反復の行為がかたちとなり増殖していく。鈴木は、自身の表現を「ダブミュージック的音楽」と喩える。反転、反復により、素材の物質性は切り離され、痕跡あるいは新たなイメージが立ち現れ、共振する。同時に、遠い過去、記憶、未来、未知の拡がりは、土、枯れ葉といった最も身近な「今・ここ」に潜在するということを、鈴木は自らの身体を「回路」とした発掘的行為により、観る者に気づかせるとともにその感覚に響かせる。

2013年2月
金沢21世紀美術館「ソンエリュミエール – 物質・移動・時間、そして叡智」カタログに掲載

彼方をつなぐ─もうひとつの言語としてのドローイング

18.03.06

 鈴木ヒラクは、いわゆる線描画のみでなく壁画や写真、映像、鋳造など多様な媒体に渡る表現行為の総体をドローイングと定義する。それは我々が通常用いる言語とは別の方法で、世界を捉え、共有可能な普遍性を備えた新たな言語のようなものを獲得する試みと言えるかもしれない。

 「光の現象」と「反転」は、本展を読み解く重要な鍵であり、空間のシークエンスは光と闇のネガポジ反転 の連続で構成されている。鑑賞者は薄暗いエントランスの先にうっすらと照らされる作家のステイトメントをまず目にし、振り向いて展示室に入ると上部の水平窓から外光が降り注ぎ白く照らし出された湾曲する巨大なヴォイド空間に行き当たる。水平窓向かいの全長約55mの壁面は、シルバーインクで描かれた壁画《歩く言語》に覆われている。その反対側には、鈴木が収集した古今東西の博物館のカタログに掲載された遺物の輪郭をトレースしてステンシルをつくり、シルバーのスプレーを吹き付けることで遺物の形態を取り出した《casting》91点が一列に整然と並べられている。また、湾曲壁と交わる両側の側壁面には対称形に渦を巻く《Circuit #6》と《Circuit #7》が設置されており、時空間が反転するような錯覚を生む。湾曲するヴォイド空間を抜けると明暗が反転し仄暗い小部屋に至る。ここには黒い紙にシルバースプレーなどで即興的に描いたドローイング《GENZO》シリーズを撮影し写真に変換した《GENZO(写真)》84点が壁面に並ぶ。写真とは光によって記述する行為であり、ドローイングは光学的変換を経て複製可能な写真となる。原画と写真はネガポジの関係にあるのだ。
 行き止まりのこの小部屋から引き返し再び明るい回廊空間を通り抜け、一旦屋外へ出て向かいの展示室に至ると、そこには最も深い暗闇が広がる。トーチを手にし、再び洞窟へと入るように暗闇に潜る。入口脇の壁面には、宇宙空間に描かれたかのように中空で変化し続ける巨大なドローイング《GENGA#001-#1000 (video)》が目に入る。また正面壁をトーチで照らすと、発光する宇宙人のような得体の知れない《鍵穴》が存在する。これは光を正面に再帰反射するリフレクターにより形成されたドローイングで、鑑賞者が光を向けることで自ら発光するかのように振舞う。さらにその向かいの暗い壁面には《GENZO #1》と《GENZO #2》が設置されている。光で照らすことにより部分が際立ちスプレーの飛沫や線の躍動感などを強く感じられる。トーチの光とともに経験するこの空間は地下の洞窟のようであり、同時にはるか空の彼方の宇宙空間の様相をも呈する。

 ところで、鈴木のドローイングにおけるネガポジ反転という発想は、マイケル・ハイザーによる大地を幾何学的に掘削するランド・アート作品群を想起させる。ハイザーの大地を掻き取り巨大な線を刻む減算のドローイングは、紙上に画材をのせて描く加算的なドローイングに対してネガ的に反転したあり方だ。《歩く言語》において、作品に取り込まれるようにその内部に没入する感覚や、少し距離をおいて俯瞰し移動することで身体的に知覚する作品体験は、ランド・アートの経験と極めて近しいものだ。ハイザーが大地に刻印するなら、鈴木は光の現象により中空に刻印すると言えよう。

 《歩く言語》は、鈴木が短期間の滞在制作により描いたもので、そのドローイングの真髄がよく反映されている。鈴木の壁画は、空間に触発され、対話するように、その瞬間にその場で描かれるものだ。約100年前にワシリー・カンディンスキーは当時の先鋭的な音楽に強い影響を受け一連の《インプロヴィゼーション》や《コンポジション》のシリーズを生み出したが、まさに鈴木のドローイングにおいて即興(インプロヴィゼーション)と構築(コンポジション)は要だ。カンディンスキーによる点と線と色彩による暗示的で記号性の高いドローイングは、抽象画という新しい表現の方法論を切り開いただけでなく、同時に太古の人類が洞窟に残した壁画がもつようなイメージの喚起力と普遍性を備えている。一方で、鈴木の運動と光によりその様相が変化する壁画は、遥か昔から存在した象形文字のように、あるいはいつか生まれる新たな言語のように見えるなど、遠く離れた過去と未来を結びつける。

 また、鈴木のドローイングも音楽的な側面をもつ。《歩く言語》において、その瞬間における描線は即興演奏に近いかたちで瞬間的な応答として起こるが、同時にその作品構造は論理的で構築的なものでもある。鈴木は、この空間の水平に流れる回廊性を強く意識し、五線譜のように基底となる水平線を最初に描く。そしてそこに、点や線による様々なラインを加え、文字やもののかたちを想起させるような記号群が形成されていく。全体を見渡し、密度の変化を与えリズムを産むように、部分的にさらに水平線が加えられていく。これらシルバーで描かれたラインは、向かいの壁面上部の水平窓から降り注ぐ自然光を反射する。鑑賞者は移動することで、少し先にみえるその光を追うように壁画に見入る。次に振り返ると今度は背後に光を発する記号が存在し、光に追われる感覚をも覚える。このシルバーのラインは、光との関係において、ときに白く輝き、ときに黒く刻印される。同じ描線が光により、はかない刹那の存在にも、古くからそこに刻まれていた原初的な存在にも感じられ、その在り方も次々に反転していくのだ。

 一方で《歩く言語》は、ことばのもつ視覚的側面である物質性や具体性に着目し空間化を試みたコンクリート・ポエトリーなどをも想起させる。光の現象を与えることで、そのうえに相互性と変質性を備える《歩く言語》は、コンクリート・ポエトリーのさらに少し先にある視覚的な言語表現を探求するものとも言えるかもしれない。

 鈴木は、ことばと絵、光と闇、あるいは過去と未来など、遠い地点にあり容易には繋がらないと思われる事象を、そのあいだに散らばる様々な切片を手掛かりとして、そこに多様な線(ライン)を見出し接続していく。その態度はまさに考古学のそれであり、この世界を紐解くひとつの方法であろう。このような態度をドローイングと定義する鈴木は、現実にそしてメタフォリカルに線を描き様々な反転を起こすことで、まさに「”いまここ”と”いつかどこか”を接続する回路」 を築くべく、世界に問いを投げかけ、同時に世界を解明する独自の言語を探求し続けていくだろう。

1- 鈴木ヒラクは「ネガポジ反転」という表現を度々用いる。
2- 鈴木ヒラクのステイトメントより抜粋。

2015年12月30日
個展”かなたの記号”カタログに掲載

未来を身体化するドローイング

18.03.05

 60×6メートルという圧倒的なサイズの《歩く言語》(2015)は、移動することと見ることが溶け合う不思議な回遊空間だ。マーカーとスプレーで銀一色に描かれた曲面をその縁に添い歩いてゆくと、光になった色彩が内面へ浸透し、軽やかに振動する。対面の高い水平窓から射し込む光の運動により、歩みをすすめるごとに壁面は多彩な表情を見せ、その現れては消えてゆく揺らぎの中から見る者の内部に見たこともない光景が生み出されてゆく。ストロボのような強度を持ち、小刻みなリズムを伴いながら、描くことの起源や言葉の原子の軌跡を手繰り寄せる新しいパノラマだ。

 あるいはその表面をゆっくり眺めながら移動してゆくと、光が行く手を遮ったり、背後から光が追いかけてくるような感覚に捕らわれる。そうした偶発的な瞬間を留めようとカメラのフラッシュを焚くと、チカチカ壁面全体が脈動し、星屑のように瞬き、新たな天体が湧出してくる。

 その回廊の始まりと終わりに向き合うように対置される《circuit》(2015)は、画面中央の小さな点を起点に、シルバーインクで描かれた記号の断片が何重にも渦巻きながら大きな銀河を展開してゆく宇宙の時計のようなドローイングである。

 《歩く言語》の壁の対面に並列された《casting》(2010-2015)は、世界の博物館のカタログページの上の遺物のイメージの輪郭をなぞり、切り抜いてステンシルをつくり、そこに銀のスプレーを施すことで、かつてあった物質が輪郭と影だけになって取り残されるシリーズだ。元の物質の記憶や歴史を抹消されたその銀のイメージは、未知の物体のような不可思議な輝きと立体感を伴い、たち現れてくる。物質の痕跡の型を取り、ネガをポジに反転されることでイメージを生成させるこのプロセスは、写真現像や金属鋳造を想起させ、時間や空間の反転さえも連想させてゆく。新しい道具で古代の遺跡を発掘していたら未来のオブジェが形を表してきた。古代の遺跡が得体の知れないオーパーツとなる。

 《GENZO(写真)》(2014-2015)は、黒い紙に銀のスプレーやマーカーで描いたドローイングを写真撮影し、印画紙に転写した作品だが、かつて写真は銀の化合物であり、この作品は軌跡を捉えた長時間露光写真や印画紙に直接物体を置いて感光させるフォトグラムといった特殊な写真技法を想起させながら、ネガティブハンド(古代の洞窟に残された手形)をドローイングの起源と考える作家の反転の身振りへの思考を明確に写しだしている。

 交通標識等に用いられる反射板を使った《鍵穴》(2015)は、円や四角など大小様々な反射板を彎曲した図形の中に配置した作品で、光を向けると光源へ反射し、見る者の網膜に煌めく光の残像を焼き付ける。それらの反射板の集合は別世界へ通じるワームホールのような気配を湛え、見る者自身も発光する生命体となって、その鍵穴へ吸い込まれてゆくのだ。

 私たちは知らぬ間に多様なリアリティを掘り起こしている。視覚一つとっても、眼球は1秒間に3回見る方向を変え、複数の視点から多様な光を同時に受けとめ、情報を収集し統合している。そうしたプロセスが進行しているがゆえに私たちは広範囲に焦点の合った視覚を獲得できているのだ。それは無自覚な作業だが、そのことにより私たちの意識/無意識は、分厚い時間の織物と心のプログラミングの構造をいつも探り続けることになる。そしてその無意識的な探求作業こそが古代と未来をつなぐ創造の秘密なのである。

 鈴木ヒラクのドローイングは、ネガティブハンドがそうであったように新たな時代のノーテーション・アートなのかもしれない。ノーテーションは通常、ダンスなどの身体運動を表す記譜法を意味し、有名な振り付け師ルドルフ・ラバンが考案したラバ・ノーテーションのように、ある空間の中の身体部位や運動時間、体の向きや高さなどを示すイメージ・システムだが、グラフィックとしても興味深い構成と奥行きを持つ。NASAがこうしたノーテーションを応用し、宇宙における身体の特別な動きを記録するための研究を行ったこともある。鈴木ヒラクのドローイングもまたそうした無重力のダンスのように、空間のみならず時間や次元さえも巻き込んだ身体運動の足跡なのだ。そうしてドローイングは文字や図形ばかりではなく、ダイヤグラムやマトリクス、光や音や映像を融合し、見えない世界をも統合する包括的なノーテーションとなる。だからその場にいると作家の宇宙の中の身振りや思考をなぞることができるのだ。それはドローイングという身体行為により既存の記号や表象の体系を解体し、それらの破片を再び寄せ集め、新たな言語を生み出そうとする冒険でもある。

 身体というマルチプル・オーガンを刷新させる未来の地図、鈴木ヒラクのドローイングは、特別な場の力を得て、ようやくその全貌の片鱗を表し始めたように思う。

2015年7月
「AC2[エー・シー・ドゥー]」に掲載(発行:青森公立大学国際芸術センター青森)

シグナルとしてのドローイング

18.03.04

 僕がドローイングを始めたのは3歳の頃でした。父が建築の仕事をしていたので、家にはいつも図面の青焼きがあって、その裏にモアイのような絵を描いていたことを覚えています。また、子供の頃は発掘少年で、土器のかけら、鉱物や化石なんかを近所で発掘して遊んでいました。そして10歳の頃にロゼッタストーンの写真を見て、石に刻まれた謎めいた文字の形に完全に惹かれてしまい、それが解読された経緯を知るにつれ、将来は考古学者になりたいと思うようになりました。

 いま僕はアーティストとして、紙やパネルの上にドローイングをしたり、壁画・インスタレーション・フロッタージュ・ライブドローイング・映像など、様々な自分自身の作品を作るという仕事をしているし、それらの作品はすべて、人間が何かを「描く」という営為の、今日の世界における、新しい可能性の追求だと認識しています。しかし、いつも僕が描く行為の中で実践しているのは、何か個人的な事象や風景やアイディアを「表す」ことよりも、やはりいまここに秘められた何かを「発見する」という発掘に近いことなのです。

 もともと19世紀に入るまで、考古学はアーティストの仕事でした。そして未だに、僕たちの過去という時空間の中には解読されていない広大な領域が広がっています。僕は、人類史においてドローイングが始まった、その瞬間のことについて思いを巡らせてしまいます。それは文字の始まりとも共時性を持っていたはずです。もちろんそれらの始原については様々な仮説がありますが、僕がいま最も関心があるのは、約3万5千年前の後期旧石器人が、そこらに転がっている何の変哲もない石に刻んだ 29本の線について、繰り返す月の満ち欠けを記録したものだとする説です。ここに僕たちは4つの要素:光・変容・石・そして刻むという行為、を見出すことができます。この29本の線が最も原始的な文字、あるいはドローイングであるとするなら、それらは過去の時間の記録であると同時に、未来の時間の変容を指し示すシグナルだと言えるでしょう。

 ご存じのように、僕の国、日本はいま、かつてない危機に直面しています。そしてこれはもはや日本に限られた局地的な関心事ではなく、また現在生きている人間だけの問題でもありません。いま、アートと呼ばれるものと、人間の存在自体との本来の強い結びつきを、現実的な意味で考え直さなければいけない時が来ているのだと思います。それをするために僕たちは、まず、「いま」が過去や未来から切り離されたひとつの点ではない、ということを知る必要があります。僕は、人間は描くという行為によって、また描かれた痕跡を見るという行為によって、「いま」という瞬間をそれぞれの時間軸の中で捉えることができる、と信じています。なぜなら、ドローイングは、その始原からずっと、人間が直接的に向き合っている現状と、長い長い宇宙的な時間との交差点であり続けているからです。

 ウィンブルドンでの僕の個展「光の象形文字」では、ロンドン滞在中に制作した約40点のドローイングと、いくつかの彫刻作品を出品する予定です。すべての作品は、描くという行為の中で、いま僕が滞在しているチェルシー周辺の環境と、考古学や言語学への関心が交差しています。最近は、道路に落ちている木漏れ日の形の変容、その残像にとても想像力を喚起されています。僕はこれらの作品達が、日常の中にありふれた「しるし」や「現象」の、とても些細な記憶を未来へとつなぐ、創造的な媒介物になることを願っています。

2011年7月
ロンドン芸術大学出版「Bright6」に寄稿(発行:University of the Arts London)

「かたち」の存在論

18.03.04

 鈴木ヒラクの作品をみて、僕がいつも感じるのは、これほどまでに残酷に、現代社会、とりわけ情報化社会と規定されるそれ、のネガであることに、純粋であろうとするために、すべての意味を剥ぎ取るという意味性、すべての必然を撥ね除けるという必然性を求め、同時に、素材をあたかも偶然のように出会わせ、その出会いの決定的な瞬間を記録するために周到に準備し、そこまでして、ようやく立ち現れる「かたち」、が弛緩しきっていることに嘆くこともなく、ただそれがネガとしての現実だ、と言い張る、その無謀な決断の潔さだ。

 簡単に言えば、こういうことだ。鈴木ヒラクは、無意識を不条理な、混沌とした、合理性の彼岸にあってその批判を可能する、意味の源泉たる不分明な領域とするのではなく、それ自体がネガとしての現実である、とすることによって、現実の方をポジとしての超現実にしてしまう。もう少し正確に言えば、目覚めているときに起こった現実の出来事を、眠りにつくやいなや、それを忘れないように自動筆記するという夢、その夢の中で自動筆記された内容を機械的に現像したようなもの。したがって、それは作品というよりは、それ以前の、記録としてのドローイング/写真だ。ここでは、人間性の延長として想定されている手、ペン、そして白い紙というものをもはや使うことができない。アプローチが逆だからだ。非人間的な主体が、現実を夢の中で自動筆記するための、ネガとしてのメディウムについて彼は考えている。

 結論を急ぎ過ぎただろうか。ではまず、目に見える「かたち」に着目しよう。「かたち」をみよう。人はそれが何であるかを考えるが、それが何でもないことを即座に認める(これに関しては彼の美しい書籍『GENGA』を見るのが手っ取り早いかもしれない)。次に、外部と内部、あるいは手前と奥、サイズの測定など、空間的な関係性の把握に努めるかもしれない。それによって三次元的な秩序が得られるからだ。だがおそらく、この作業もあまりうまくいかない。内部と外部、手前と奥は、反転可能なものだ。大きさも伸縮可能であって確定しない。仕方がないので、ジャンルの力を借りて認識の枠組みを導入し、そこからその様態を理解しようとするかもしれない。絵画、ドローイング、写真、コラージュ、彫刻、レリーフ、グラフィティ、版画、ヴィデオ…。おそらく、この作業もあまりうまくいかない。ジャンルによる価値判断基準からすると、もはやなんの価値もないというレベルにまで還元されてしまいそうだ。だが、それを見ているあなたは、それがなんの価値もないものではないことを、直感的に知っている。最終的に、あなたは、なにか深遠な思想による造形物という安易な物語に逃げたくなるかもしれない。だが、ちがう。それもちがう。鈴木ヒラクの作品は、あなたがあなたの「かたち」を保持したままで理解できるものではないからだ。夢の中に入らなければならない。

 しかし、夢のなかに届かないことを知っていてそれを望むのは、逃げであり、堕落である。鈴木ヒラクはそんなダサいことはしない。堂々と、夢が現実だ、これはその現実の記録だ、と言い張る。あなたはその記録に撃たれることによって、超現実的なこの世界で死んだように生きることができる。万歳。万事ポジティヴだ。
 と、あなたに気づかせようとしている鈴木ヒラクの営みは、ただただ無謀で、潔い。この営みの透明のかたちだけが、空に漂っている。

2015年9月
個展「GENZO」に寄せて

The 8th FID Prize

18.03.03

日本人アーティスト、鈴木ヒラクのドローイング作品は、イメージと言語の間を流動的に行き来する、このメディアの能力に焦点を当てています。私は大学時代に哲学者(言語を中心に)、そして詩人として活動していた頃から、視覚とテキストの関係に興味を持ってきました。ヒラクは、紙に描く作品、壁画、ビデオ、パフォーマンスなど、様々な方法で作品を制作しています。私個人としては、彼の大規模なインスタレーションやビデオプロジェクションに最も期待をしています。ドローイング、言語、記号が身体に与える影響について考察するというアイデアに惹かれるのです。

2017年1月
The international FID Prize drawing contest カタログに掲載