Tag:鷲田めるろ(十和田現代美術館館長)

見えないものを引き出す線

群馬県立近代美術館で、鈴木ヒラクの個展「今日の発掘」が開催されている。展覧会に合わせ、鈴木の初のエッセイ集『ドローイング 点・線・面からチューブへ』も刊行された。

著書の題名にも示されているように、鈴木の関心の中心にあるのは「ドローイング」である。絵画の分野では「ドローイング」は、完成作としての油彩画に対して、習作としての素描という意味があり、従属的な軽いものというニュアンスを伴って用いられることも多い。

だが鈴木は、「ドローイング」をその原義、すなわち「(線を)引く(draw)」こととして、油彩画から独立したものとして捉える。そして、それを「引く」という行為の痕跡としてだけでなく、世界の法則を目に見えるように「引き出す」ものとして考えている。

さらに鈴木の独自性は、線をチューブに喩える点にある。国境のように何かと何かを隔てる境界線ではなく、ものが通り抜けるだけの太さを持ち、何かと何かを繋げ、行き来を生み出す通路としての線。

例えば、本展の「廊下」には、長く続くロール紙が両側の壁に貼られ、そこに曲がりくねった細い木の枝が無数に立てかけられている。枝の先には銀色のインクが付いており、ロール紙には同じ銀色の引っ掻いたような跡がある。作品解説によると、これはワークショップの「記録」で、「枝を『通して』線を引くことを試みた」という。

確かに、枝も線であり、同時に樹液を流すチューブである。その枝を握る腕も同様に、血液や神経が行き来するチューブであり、人と植物という違いを超えて、連続するもののように感じられる。その先が紙に触れたとき、そのチューブがさらに紙の上にまで伸びて線となるようなイメージだろうか。

個々の作品だけでなく、本展の展示構成に関しても、入り口に掲示された挨拶文に、磯崎新が設計したこの建物が「作品が通り抜けていく空洞として構想」されたとあり、はっとさせられた。本展は「展示室4、5」と一つの「廊下」を使って開催されているが、美術館において「展示室」と「廊下」を明確に区別することは実は難しい。廊下がどこまで広がれば部屋になるのか。「ギャラリー」の意味は「回廊」であり、宮殿の廊下のような空間に絵が掛けられたことが美術館の一つの起源である。本展で使われた3つの展示空間はひと続きになっており、一本のチューブとして捉えることができる。つまり、ドローイングなのだ。順路もいずれの入り口から進んでも見られるように設定されている。

このように、鈴木の作品を見て、その考えに触れると、「ドローイング」の意味が拡張し、様々なものを「ドローイング」として捉えることができることに気づく。このことが、鈴木の言う「(意味を)引き出す」ということなのだろう。

3つのうちの真ん中の展示空間では、壁から壁へと頭の上をまたいで、ワイヤーが2本渡され、中空に線を描きながら、いくつもの石を貫通し、浮かせている。そのワイヤーが取り付けられた壁には、鍵の穴のような図形が太い銀色の線で描かれている。反対側の壁にも同じ太さの同じ色の線で、上部が一部欠けた円が描かれている。何かの暗号のように見えたが、「作品解説」によるとこれは、美術館の近くにある前方後円墳である観音山古墳を上空から見た形だという。なるほどそう見ると、上が欠けた円形は、トップライトを取り入れるために天井から出っ張っている構造物の台形と組み合わさって、一つの鍵穴型を構成することがわかる。建物の一部が、この空間的なドローイングに取り込まれているのだ。そのことによって、トップライトが天井に沿ってチューブ状に伸びていることもまた意識され、それがワイヤーの線とも相まって、この展示室の長辺方向の方向性を強めるとともに、建物に意識を向けることで展示室が筒状であることをより強く感じさせる。

石は、両側の壁面全体に天井までの高さを使って、お互いに距離を取って展示された数々の平面作品の表面にも取り付けられている。これらは無数に小さな穴のあいた溶岩である。石の穴から出てきたエネルギーが発散されているかのように、周囲に銀色の線が描かれている。そして、画面を超えた石同士の配置は、星座を構成する星のようにも見える。

鉱物への関心は、古墳時代という人類の歴史を超えて、地球や宇宙の誕生というところまで想像を広げさせる。

展覧会タイトルの「発掘」には、見えない線を可視化するという意味とともに、根源へと掘り進める意思が込められているように感じられた。

雑誌「すばる」12月号