20 years ago, I drew my first signs using the veins of dead leaves that I had gathered. Ever since, the practice of creating for me has continued to be an act of excavation that serves to newly re-examine and understand the world. Tracing back further, I suppose it had started from the time I was producing music referred to as “dub,” which appropriates collected environmental sounds as a source material, and remixes it them while amplifying their reverberations.
At one point however, I realized that it was not enough to simply discover and relocate fragments of an existing world. What I needed to do was create an alternative language. In this respect, I started to engage in attempts of fabricating the very fragments of the world itself. It is an act like causing a kiss mark to exist before the kiss. The traces always come before meaning, as does reflection before substance, and negative before positive.
Like Arthur Russell’s World of Echo, a musical work created solely by traces of sounds, “dub” is a technique which implies a world that used to exist / should come.
I therefore started to use silver and other light reflective mediums that could invert things by once erasing materiality and meaning through the phenomenon of light. For instance, while one had previously peeked out at the light from the eye of a needle found on the street, now a vector is created that enables a thread of light to pass through the needle hole.
Recently, the accumulated act of drawing has gradually come to approach the act of “weaving.” The fragments of signs that are born one after another though instant improvisational gestures are twisted together, enabling a certain sense of order to emerge like a piece of woven textile. In other words, I feel that what has started is an attempt akin to writing a long text using another language.
November 2019
contribution to the exhibition “MOT Annual 2019 Echo after Echo : Summoned Voices, New Shadows” at Museum of Contemporary Art Tokyo
島田雅彦が「郊外三部作」と呼ぶ小説の第一作目『忘れられた帝国』1では、東京の郊外に暮らす主人公の生活が説話の形で語られている。小学生である主人公は、自宅近くの森を探索するうち、宅地造成の工事現場から縄文式土器を発見し、しばし発掘熱に浮かされる。それはのっぺりとした日常に非日常が顔をのぞかせた瞬間だった。
高度経済成長期、都市の郊外では急速な宅地開発がなされ、それにともなって埋蔵文化財や遺跡が多く見つかった。日本の古層が、大都市の周縁部でむき出しの状態になっていたわけで、それは先史時代に直結したトンネルの入口が、大都市の真横にぼっかりと口を開けていたということになる。
鈴木ヒラクは2歳の頃、仙台市から川崎市麻生区に引っ越した。彼も小さい頃、家の周りを掘って遊んだ発掘少年であり、土器や様々なものを掘り出すことに熱中したという。そのとき、日常の生活では隠れて見えなかった現在と過去とを結ぶ長大な時間的・空間的な意識の飛躍を、鈴木も感じたことだろう。こことかなたを繋ぐ糸口を見つけ、それを掴み出すこと。それが鈴木の制作の原点である。
鈴木がこれまで展開してきたのは「拡張された意味でのドローイング」というべき活動である。通常ドロ一イングとは紙の上に線で描かれ、絵画へと至る過程にあってその準備段階を構成する。絵画と異なり「『全体のルール』に従うわけではないし」「完成した全体との関係においてのみ意味をもつのでもない」2 このように、ドローイングは確定的ではないがゆえに、あらゆる方向に開かれており、自由な表現形態として独自のフィールドを持っているといえる。
だが鈴木のいうドローイングとは、さらに広い範囲を含むものであり、平面上に描かれた線のみでなく、ある場所からある場所をつなぐ行為の軌跡、あるいは何かと何かの間を行き交うシグナルなども含めて、「空間や時間に新しい線を生成していく、あるいは潜在している線を発見していく過程そのものを指す」3ものだとしている。実際鈴木はこれまでも、立体、映像、パフォーマンスなど、ジャンルを横断した旺盛な活動を行ってきた。強調すべきなのは、身体や意識の動いた軌跡も積極的にドローイングヘと組み入れようとしている点であり、公共空間でのドローイング・パフォーマンス(fig.1)や、手の動きをリアルタイムに映写しながらのドローイングなども、彼の重要な表現手段だった。そこにはダンス、さらにはストリートカルチャー(グラフィティ)との類縁関係までも指摘できるだろう。
鈴木は作品制作を「考古学」になぞらえ、作品を「解読を待つ一種の記憶装置」と捉えている。たとえば、今回の展覧会には出品されないが、《bacteria sign》シリーズ(fig.2) は、作者が初期から今日まで、断続的に継続して制作している作品であるが、その制作方法とは、土に一旦枯葉を埋めたのちに葉脈部分を掻き出すことによつて、プリミティブな形象(葉脈によるドローイング)を顕わにするというものである。この手法はまさに「発掘」そのものであって、ここでは作者という存在が、長年の土砂の堆積により地中深く隠れている遺物を探して掘り出す、考古学者の役割を与えられている。と同時に、土を「手で掻き出す」という制作行為に焦点が合っていることも明らかである。このような実際の身体の運動、それにともなう意識の流れが、時間と空間の中に描いた軌跡を、注意深く丹念に収集すること。そして時には大胆に他のメディアヘと組み換えることが、鈴木のドローイングを形作る。
今回の展示では、墨の上にシルバーで描いた《Constellation》シリーズ、反射板によ作品《Road》、ステンレスチューブの立体、そして新作の映像作品によって構成される。
星座(=Constellation)は、地球から見える無数の星の中の幾つかを、架空の線によって結びつけ、そこに形象や意味を見出すことだが、それも作者にとってはドローイングのーつである。何万光年も離れた場所から今地球届いている星の光自体、遠いかなたの星と私たちとの応答(コレスポンダンス)ととらえることができ、それもまた作者においてはドロ一イングの一部を構成している。墨の上にシルバーペイントで描かれた無数の記号は、宇宙の闇と光を放つ星たちとの対比を思わせる。明と暗、ネガとポジなどの「対比」も、意識の応答を引き起こすものとして、ドローイングに類するものと鈴木は捉えている。《Constellation》シリーズでは、方向性の定まった直線的な記号表現と、フリーハンドによるスプレー表現との二つの対比が、画面全体の動勢を決定している。横長の《Constellation #19》は、遠くから全体を見ると中央が厚みをもつ形をしており、銀河を真横から見た形を連想させるが、作品に近づくと、ロゼッタストーンを思わせる記号の集積が延々と広がっているような印象を強く受ける。その結果、鑑賞者は自身の中で、ミクロ的視点とマクロ的視点との頻繁な転換を体感することになるだろう。そこにもまた、瞬間的なドローイングがなされるのである。
《Road》の3点は、夜の高速道路などで道巾を示したり、街なかの交通標識などに用いられ注意を喚起したりする反射板が使われている。見る者が光を発すると鋭い光を送り返してくるこの反射板もまた、人工的に光のシグナルを作り出し、断続的な光の応答を発生させる。
《Reco‖ection of the Contours》は本展で初めて公開される新作のビデオ作品である。作者は昨年の夏、北海道内に点在する環状列石を多数リサーチし、写真とドローイングでメモを残した。本作はその時の考察が反映されており、手描きによるドローイングよりも、小石を配置してなされる構成が主体となつている点が注目される。
これまでもライブパフォーマンスの際に、紙の上に小石をばらまき、ドローイングのきっかけとすることがあったが、今回のビデオの小石の使用はより積極的である。手元でのドローイングを壁面にビデオ投影しながら行うこれまでの一部のパフオーマンスと類似する部分もあるが、単純に筆を小石に置き換えたというわけではない。
自然物であることを示す不規則な形がまず印象に残る。そしてその動き方からそれが実物の小石と分り、それを人が並べる作業を示すことによつて、自然と人工、オブジェクトと記号、偶然と計画性といった問題を浮き彫りにする。その際、コントラストを最大にしてネガ・ポジを逆転させ、白と黒の単純なシルエットヘと変換することによって、全体が整理され、簡潔で抑制の効いた、強い印象をもたらす表現へと至っている。
一つの石を置いてから、次の石を置くまでの行為は、それが環状列石のように大地の上であれ、この作品のように紙の上であれ、無限のバリエーションの中から行われた「選択」の一つであることに変わりはない。二つの石の間をつなぐ線には意識の流れが折り重なり、内に時間と空間を含んだドローイングが生まれる。この作品ではそれが適度なテンポで連鎖していくのである。
小石によるドロ―イングは、組み替えや修正が自在であり、それを瞬時に行うこともできる点で、簡潔、明快で、また鈴木の持つスピード感に適した表現となった。手の行為の軌跡と物の作る配置をめぐる展開として、鈴木のドローイングのもう一つの面を見せてくれている。
(文中敬称略)
1: 島田雅彦『忘れられた帝国』1995年、毎日新聞社
2: ティム・インゴルド『メイキング』2017年、左右社
3:『Drawing Tube vol.1 Archive』2017年、Drawing Tube
2019年2月23日
アートみやぎ2019カタログに掲載