線の「発掘」、時間と空間の交差点で

藪前知子(東京都現代美術館学芸員)

 近年の鈴木ヒラクは、これまで多岐にわたる方法で行ってきた自身の表現活動を、「ドローイング」という一語に集約し、方法と思考を深めている。彼によれば、ドローイングとは、「平面上に描かれた線のみではなく、宇宙におけるあらゆる線的な事象を対象とし、空間や時間に新しい線を生成していく、あるいは潜在している線を発見していく過程そのもの」を指すという(1)。あるいは、「書く」と「描く」の間の行為でもあるとも説明する(2)。ここで示されているのは、彼の生み出すその線が、全くの無から生成したものではなく、既にそこにあった可能性の一部であるということだ。文字を書くことに近づきつつ、しかしそれは、意味を結ぶ手前で捕まえられなくてはならない。鈴木ヒラクはその作業を「発掘」に例える。作者の恣意的な選択でも、偶発性に身を委ねるチャンス・オペレーションでもない、「発掘」という方法論。あくまでも比喩であるとしても、それはいかにして可能となるだろうか。

 例えばその線は、鈴木の身体とその動きに関わりつつも、それとは切り離されたところで発現されなくてはならない。言い換えれば、その線には、それ自体の内的な時間―歴史―が抱合されていなくてはならない。たとえば現存する唯一の象形文字といわれる漢字は、対象を描いた絵が線に転換され、無数の段階を経て発展したものである。何度も伝達される過程で、それを形作る線は、秩序化と抽象化を繰り返し、普遍性を獲得していったはずである。あるいは、何か別の大きな全体の一部であることを感知させる線。鈴木ヒラクが折に触れて例えに出す、オノヨーコの作品に添えられた言葉「この線はとても大きな円の一部です」を思い出してもよい(3)。鈴木ヒラクが長い時間をかけて成熟させたドローイング集、「GENGA」は、そのような線を実現したと言ってよいだろう。「言語」と「銀河」を合わせたタイトルが示すとおり、これは、未だ進化の過程にあることを想像させる文字の胚子とも言うべきものの集合である。夥しいその複数性もまた、これが大きな全体の一部であることを予感させるものだった。

 一方で、「発掘」というその瞬間には、現在と過去が鋭く拮抗しあう、アンビバレンツな時間が内包されている。潜在的な可能性が可視化された時、それは既に痕跡となる。初期の鈴木ヒラクは、その矛盾に満ちた瞬間を、例えばOHPシートを用いて、線を一瞬の光と闇の明滅として発現させるなど、ライブ・ドローイングに力点を置くことで増幅させてきた。その後、ネガとポジが反転した黒の地に、銀色のインクや反射板など、光を反射するメディウムを手に入れることで、彼は、描かれた線が永遠の時間を獲得し、空間の中に存在し続けることに折り合いをつけたように見える。それは例えば、瞬間を画面に定着しようとするのではなく、全ての瞬間の光を画面に宿そうとした、印象主義者から象徴主義者への転換を連想させる。

 そうしてみると、ひとつの空間の中に、時間を越えて存在しつづけるものを発現させるという点で、鈴木ヒラクの「発掘」という方法論は更なる段階へ達したのではないか。「発掘」とは、時間と空間の交差点を探り当てる行為なのだと言ってみたくなる。彼の作品において空間が大きな意味を持つようになるのは必然的な流れだろう。近年の作品では、大画面に銀河系を思わせる広がりが展開される。鈴木は、線を引く行為を、何かと何かのあいだに「Tube(管)」を作り移動していくことと位置づけ、「交通」という主題を前面化させる(4)。 そこには、線の集積が、互いの関係の中から秩序を見出しつつ、空間の形や広がりを自ら決定している。

 私たちが目にする星の光は、気の遠くなるほどの過去に発されたものであるという。地球上でようやくそれを受け取った瞬間には、その星はすでに遠い未来にいる。鈴木ヒラクの作品が提示するのは、宇宙や星座の「描写」ではなく、過去、現在、未来が圧縮された、秩序空間としてのその構造である。それは、「私」と「私以外の世界」とのあいだをはっきりと認識させる空間でもある。鈴木ヒラクの作品を見るとき、私は、満天の夜空を見上げたときの、自分の居場所がわからなくなるような奇妙な感覚がどこから来たものかを、はっきりと自覚することになるのである。

(1)鈴木ヒラク「Drawing Tubeとは」2016年8月3日、DrawingTube.org
(2)「対談 石川九楊×鈴木ヒラク 文字の起源」『ことばの生まれる場所 ヒックリコガックリコ』左右社、2017年、p.11
(3)オノ・ヨーコ《青い部屋のイヴェント》のための指示、1966年
(4)前掲(1)

2018年4月27日
個展”交通”に寄せて

 

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