予測不能世界へ

伊藤俊治(美術史家・東京藝術大学教授)

 洞窟画はどのように生み出されるのだろうか。

 例えば洞窟の闇のなか、火をともしながら周りを見渡すと、おびただしい潜在するイメージがうごめいているように感じられる。岩の塊や鍾乳洞の先の形をきっかけに、そのひとつを自らの身体感覚を動員し描き出してゆく。あるいは夢や陶酔といった意識変容状態を手掛りに、闇に脈動する多種多様な線や面を引きずり出してゆく。そこは言わば形態が湧出し、意味が生成する場であり、新たなイメージを発見し、掘り起こす交感の場だったのだ。あるいはその場は原始の人々にとって生き延びる知恵の秘められたアーカイプのようなものであり、洞窟の壁面こそがそうした膨大な情報に触れるためのインターフェィスだった。洞窟そのものが一種の記憶装置や投影装置であり、洞窟空間自体に意味や形態を生みだしてゆく仕組みが孕まれている。

 鈴木ヒラクは我々の住む都市をそのようなものとして認識し、感知しつづけてきた。だから彼の作品は不可視の洞窟の構造を持ってしまった我々の都市の洞窟画のようなものといえるだろう。その幾何学的な物理的外観とは異なり、我々の住む都市は非物質化し、流動し、同時性を持った遍在する都市となりつつある。その変容する都市のなかで、秘められ、潜在する様々な記号や形態を精緻に救いだし、研きあげ、集積し、編集し、新たな形態を紡ぎだしてゆく。それはまさに洞窟の暗闇のなか、か細い燭光を手掛りに理もれたイメージを掘り出し、新たなキャンバスに五体を駆使しながら転写してゆく行為そのものといえるだろう。

 カルロス・カスタネダがトーナル・ユニバースとナグアル・ユニバースという二つの世界の違いを述べたことが思い出される。つまり前者は日常的な因果関係に支配された世界であり、あらかじめ記録されているかのように予測可能である。それに対し、後者は予測不能な、コントロールできない未知の世界であり、その世界へ入り込むには無作為の要因を受容したり、偶然の扉が開かれなくてはならない。もしアーティストが前者の世界にのみ存在しているのなら、トーナル・ユニバースをコピーしているに過ぎず、その作品は自分がコピーする世界と同じように予測可能である。しかし予測不能のものを呼び出そうとする者は、自らを積極的に偶然性と無作為性に対して開きつづけなければならない。しかも「今日効いた呪文は明日には気の抜けたビールのようになってしまう」のである。ナグアル・ユニバースは常に自らの力で更新され続りなければならない。鈴木ヒラクの作品には、その予測不能世界と対峙し、そこへ自らを投企しようとする本質的な身ぶりが多様な形態を超えて何重にも揺らぎながら印されている。

2008年1月
個展「NEW CAVE」カタログに掲載

 

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