「かたち」の存在論

遠藤水城(インディペンデントキュレーター)

 鈴木ヒラクの作品をみて、僕がいつも感じるのは、これほどまでに残酷に、現代社会、とりわけ情報化社会と規定されるそれ、のネガであることに、純粋であろうとするために、すべての意味を剥ぎ取るという意味性、すべての必然を撥ね除けるという必然性を求め、同時に、素材をあたかも偶然のように出会わせ、その出会いの決定的な瞬間を記録するために周到に準備し、そこまでして、ようやく立ち現れる「かたち」、が弛緩しきっていることに嘆くこともなく、ただそれがネガとしての現実だ、と言い張る、その無謀な決断の潔さだ。

 簡単に言えば、こういうことだ。鈴木ヒラクは、無意識を不条理な、混沌とした、合理性の彼岸にあってその批判を可能する、意味の源泉たる不分明な領域とするのではなく、それ自体がネガとしての現実である、とすることによって、現実の方をポジとしての超現実にしてしまう。もう少し正確に言えば、目覚めているときに起こった現実の出来事を、眠りにつくやいなや、それを忘れないように自動筆記するという夢、その夢の中で自動筆記された内容を機械的に現像したようなもの。したがって、それは作品というよりは、それ以前の、記録としてのドローイング/写真だ。ここでは、人間性の延長として想定されている手、ペン、そして白い紙というものをもはや使うことができない。アプローチが逆だからだ。非人間的な主体が、現実を夢の中で自動筆記するための、ネガとしてのメディウムについて彼は考えている。

 結論を急ぎ過ぎただろうか。ではまず、目に見える「かたち」に着目しよう。「かたち」をみよう。人はそれが何であるかを考えるが、それが何でもないことを即座に認める(これに関しては彼の美しい書籍『GENGA』を見るのが手っ取り早いかもしれない)。次に、外部と内部、あるいは手前と奥、サイズの測定など、空間的な関係性の把握に努めるかもしれない。それによって三次元的な秩序が得られるからだ。だがおそらく、この作業もあまりうまくいかない。内部と外部、手前と奥は、反転可能なものだ。大きさも伸縮可能であって確定しない。仕方がないので、ジャンルの力を借りて認識の枠組みを導入し、そこからその様態を理解しようとするかもしれない。絵画、ドローイング、写真、コラージュ、彫刻、レリーフ、グラフィティ、版画、ヴィデオ…。おそらく、この作業もあまりうまくいかない。ジャンルによる価値判断基準からすると、もはやなんの価値もないというレベルにまで還元されてしまいそうだ。だが、それを見ているあなたは、それがなんの価値もないものではないことを、直感的に知っている。最終的に、あなたは、なにか深遠な思想による造形物という安易な物語に逃げたくなるかもしれない。だが、ちがう。それもちがう。鈴木ヒラクの作品は、あなたがあなたの「かたち」を保持したままで理解できるものではないからだ。夢の中に入らなければならない。

 しかし、夢のなかに届かないことを知っていてそれを望むのは、逃げであり、堕落である。鈴木ヒラクはそんなダサいことはしない。堂々と、夢が現実だ、これはその現実の記録だ、と言い張る。あなたはその記録に撃たれることによって、超現実的なこの世界で死んだように生きることができる。万歳。万事ポジティヴだ。
 と、あなたに気づかせようとしている鈴木ヒラクの営みは、ただただ無謀で、潔い。この営みの透明のかたちだけが、空に漂っている。

2015年9月
個展「GENZO」に寄せて

 

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