アクチュアルな線を求めて ―ドローイングをめぐって

今村有策(トーキョーワンダーサイト館長)

 昨今改めて「ドローイング」の意味や位置づけが問い直されている。1970年代に開設されたNYのドローイングセンターの活動が活発になり、注目が置かれ始めており、ロンドン芸術大学ではドローイングのセンターを開設し、様々な分野のドローイングの発表そして出版が行われ始めた。ドローイングはこれまで、スケッチやデッサンと呼ばれた下絵としての意味合いを越えて、明らかに違う位置を占め始め、それ自体が作品として自立するものとして認知されてきている。ドローイングはアートの領域のみならず、すべてのクリエイティブの領域で行われている創造的なエスキスの瞬間であり、それは作品の様式などにとらわれずに描かれているだけに、作家や作品の思考の運動そのものであり、生成過程そのものが見えてくる。

 もともとイタリア語のディゼーニョという言葉が素描を意味し、ルネサンス期においてすでに個々の事象、事物に線によって輪郭を与え明確に捉えることが芸術あるいは創造の根本と考えるすなわち世界を規定することに他ならないことが議論され、後に「デザイン」をも意味することになる。中国、日本においては、文字すなわち漢字は象形文字であり、具体的な事物や出来事が文字として置換されているがゆえに、われわれには西欧におけるカリグラフィーをはるかに凌駕する書道という文字の芸術を持っている。漢字は記号である以前に絵としての性格を色濃く持つ。であるからこそ私たちは書に美を感じ、伝統的に高位の芸術として捉えられてきた。書は生命的な躍動感と世界創出の瞬間を捉え続け、現代美術にも多くの影響を残している。人は洋の東西を問わず、世界を切り取り、創出するとき常に線と向かい合ってきた。鈴木の作品と活動を見るとき、私はこの初源的な人間の希求を強く感じるのだ。

 鈴木の制作活動は多岐にわたっている。幾何学的とも建築的とも見える、あるいはナスカの地上絵のような線描のドローイングや、今回ワンダーサイトで展示した作品のように、泥の中に埋め込まれた樹木の葉の葉脈をドローイングのラインとして発掘する作品、そしてライブハウスなどではライブペインティング、そして旅とともに生みだされる靴による路面のフロッタージュ、都市のアスファルト舗装の廃棄物を集めたインスタレーション作品など。鈴木の活動をひとつのカテゴリーの中で言い表すことは難しい。しかし、ひとたび通奏低音に線を見出したとき、彼が追い求めるものが明瞭に浮かび上がってくる。鈴木の描き出す線は古典主義的な事象を写し取ることや想像の線を描き出すのではなく、生命的で律動し生成する線を模索する。その様は、リアルな線あるいはアクチュアルな線を求めている。鈴木がずっと作り続けている何百枚にもわたるドローイングがある。TWSの展示ではそれをモルフィングする動画にまとめられた。その作品には彼の営みのエッセンスが象徴的に表されている。その独立した建築の設計図の一部のようでもある脈絡の無い一枚一枚がモルフィングされて繋がれて行くことによって、意味がどんどん剥ぎ取られていき、不思議な生成の瞬間に立ち会うことになるのである。不思議なドローイングはまるでアボリジニのドリームマップのように私たち現代人の初源的な命の躍動への道先案内となってゆく。

 今回の泥の中に葉を埋め込み葉脈を発掘する作品において、彼は滞在した青山の通りの木々からの葉っぱを集め、おなじように青山からの泥にそれを埋め、改めてそこから線を発掘するという作業を行った。その遠回りともいえるような考古学的な作業を経てこそ、私たちの身近な事物の中から改めて生き生きとしたアクチュアルな世界を蘇らせようとしているのだ。鈴木が見つけ出す線、私たちはそれを見ることによって、自らの中にむずむずとした得体の知れない疼きのような動きを感じることになる。鈴木の作品と活動はまるでアメリカインディアンのメディシンマンのように私たちをアクチュアルな世界と導いてゆくのである。

2008年1月
個展「NEW CAVE」カタログに掲載

 

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